
創業200年余り、初代・津崎屋利右衛門が石関町で材木屋「津崎屋」を始めたのは享和元年(1801)のことでした。当時、岡山の南北物流・交通の主役は高瀬舟。材木も丸太を竿に組み勝山方面から旭川を下ってきていました。石関町に材木を扱う店を開いたのは、高瀬舟が着く場所だったから。津崎屋の他にも材木屋はたくさんありました。
津崎屋は5代目まで津崎屋利右衛門を襲名、屋号も明治始めの頃まで「津崎屋」を通し、その後「中塚商会」と称するようになります。現在の店名には「銘木」が使われていますが、今でこそ一般的になっているこの言葉、「大正時代に生まれた熟語だと聞いています」と現当主。第二次大戦後に「中塚銘木店」と称するようになりました。
岡山で最初と言われた製材所をもっていた中塚商会。大正時代に火災に遭い、その製材所と倉庫の大半を焼失してしまいました。
昭和9年(1934)、室戸台風が岡山を直撃します。京橋では水位が7.15メートルも上がり、相生橋は流失、堤防を越えた濁流が市街地に一気に流れ込みました。中塚商会はじめ石関町の材木屋数社からは材木が流出。水につかって混同してしまった材木の後始末も大変な苦労でした。
さらに昭和20年(1945)、岡山大空襲。市街地のほとんどを焼き尽くした炎で中塚商会も本宅と倉庫の一部を焼失しました。残った倉庫も戦争のため在庫は皆無。焼け跡から必死の思いで立ち上がり、昭和30年に法人化、石関の材木屋としてただ一軒、伝統を守り抜いてきたのです。
西川原倉庫作業場に、毎年10月、宇野小学校児童が30名ほど訪れます。子どもたちが目にするのは、太い丸太の年輪や、鉋を使う大工さん。長い年月をかけて育った樹木の命を感じ、それを大切に扱う大工さんの仕事に触れ、子どもたちはあらためて「木」を見つめます。
組合では、毎年秋に親子木工教室も開催。住宅建築様式が変化し、家を支える柱が見えなくなってしまった現代ですが、「木」とともに住まうことの幸せを提案し続けています。
真っ白な毛並みの私はフクと申します。大切な商品を日夜守り抜く、営業部長・品質管理部長。お客様にお会いできるのを楽しみにしております。