創業百年の老舗企業の歩み

羽原醤油株式会社

1876年(明治9年)~1882年(明治15年)頃創業
醤油/岡山県岡山市鉄904
ウェブサイト
創業の頃の出来事
1877年 - 西郷隆盛が西南戦争を起こす
1877年 - アメリカのエジソンが蓄音機を発明
1878年 - 岡山区役所が設けられた。当時の岡山区は人口3万2953人
1879年 - 山陽新報(山陽新聞の前身)が創刊。天神山に県庁が新築

真金吹く吉備の里にて。質屋から呉服商を経て醤油醸造へ

 古代から中世にかけて鉄山で栄えた岡山市鉄(くろがね)。江戸時代には山陽道沿いに商家が建ち並んでいたようです。創業130年を超える羽原醤油。もともと羽原家は、そんな鉄の地で質屋を営んでいました。
 幕末に岡山藩が藩札の平価切り下げを断行。羽原家は大打撃を被り、呉服商を経て、明治10年(1877)、当時40歳代の働き盛りであった羽原磯八が醤油の醸造を始めました。
 商標である「橘」は、羽原家の家紋に由来します。
 昭和の太平洋戦争では食糧統制や空襲でどこも苦しみましたが、岡山市の郊外に店を構えていたことが幸いして、被害は比較的少なく切り抜けることができました。戦後しばらくは、物をつくれば売れる繁忙時代。国鉄の貨車を使い、醗酵が進みにくいもろ味を青森の醤油屋へどんどん送っていた忙しい華やかな時期もありました。

岡山藩 安政の札潰れ
 幕末の頃、岡山藩が行った10分の1幣価の切り替え措置。洪水や干ばつ、黒船来航による警備、軍制改革等で莫大な出費が重なり、藩財政は困窮。藩札の信用も下落し、金1両に対し80匁であった銀札相場が安政元年(1854)11月には580匁に暴落。藩は従来の10匁札を新銀札1匁札と引き替える札潰れを強行しました。
(『岡山県大百科事典』山陽新聞社)

“みてた”頃に一升瓶でお届けします。今の時代に何が一番重要か、考えた末の選択

 まだ自動車も普及していなかった明治の創業当時は、味噌屋や酒屋、酢屋、醤油屋がどこの町にもあって、大八車に樽を積んで各家庭を回るという商売が行われていました。
 実は、羽原醤油ではこのような販売形態を今も続けています。醤油が“みてる”(岡山の方言で「無くなる」)頃を見越して各家々を回り、納屋、物置小屋を勝手に開けて空瓶を回収し新しい醤油を置くのです。留守宅には、節季(お盆と年末)に集金に回っています。
 届けるのは一升瓶で10本単位。昭和30年代から洗瓶と充填を繰り返し、一升瓶を大事に使っています。ペットボトル主流の現代、重くてかさばり洗瓶にも気を遣うガラス瓶をわざわざ使う羽原醤油。リサイクルをただ唱えるだけでなく、メーカーとしての責任を果たすために、従業員は今日も一升瓶10本入りの重い木箱を抱えています。

昔からのお客様に支えられて。甘みとコクの豊かなのびのある味わい

 醤油は一般的に西に行く程甘いと言われます。羽原醤油の特徴は、甘みとコクの豊かなのびのある味わい。大手メーカーの醤油にはない独特な味です。また、醤油の加工品ではなく、基礎調味料としての「醤油」そのものの製造にこだわります。
 お客さんも、その味わいに魅せられた代々のファンが多いようです。「ずーっと羽原さんとこから取っている」「他で貰って全然違う、この醤油でなければ…」と消費者の声。「私が嫁に来た時には、もう食べていた」という90歳を越えたご贔屓筋もいらっしゃいます。

羽原醤油を支える人達。次世代へ向け奮闘中

 現在の社長は羽原澄子さん。先代には男子がなかったため、4人の娘のうち長女の澄子さんが跡を取りました。二女は他界しましたが、三女愛子さん、四女睦子さんは、共に現在も羽原醤油の従業員として元気に働いています。
 平成12年(2000)、三女愛子さんの長男で自動車販売の仕事をしていた従野(よりの)孝明さんが、大阪から戻ってきました。「昔から親しんだ味を残したい。伝統のある企業を継続させたい」という熱い思いからでした。従野さんは、インターネットでの販売を開始するなど、橘の味をより多くの人に味わってもらえるよう奮闘中です。

当時の醤油ラベル
玄関口には橘醤油の看板が
醤油醸造樽が並ぶ
右から3番目が現社長の羽原澄子さん
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