創業百年の老舗企業の歩み

山佐本陣(有限会社山佐別館)

1905年(明治38年)頃創業
旅館/岡山県岡山市本町8-23
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創業の頃の出来事
1904年 - 日露戦争開戦
1905年 - 夏目漱石が処女作「吾輩は猫である」を連載開始
1903年 - 岡山市に電話が開通する
1899年 - 児島湾の開拓に着手する

「山」長の「佐」五郎さんが旅館を始めた。鉄道開通に沸く岡山駅前で創業

 創業104年、岡山市内にあった山長旅館(現ホテルマイラ)経営者の二男、小林佐五郎が、独立して旅館業を始めました。山長の「山」、佐五郎の「佐」から名付けて「山佐」旅館。明治38年(1905)頃のことでした。
 山陽鉄道が岡山駅まで開通したのは明治24年(1891)。以後、岡山駅前には旅館が建ち並ぶようになります。山佐旅館もその一つでした。
 昭和20年(1945)、岡山大空襲で山佐旅館も全焼。佐五郎の娘お浩(大正元年1912~平成4年1992)が戦後に再開します。お浩は臼井家に嫁いでいましたが、昭和25年(1950)4月16日、駅前(現在の難波古道具店西隣付近)に8部屋の建物を借りて家業を再開することを決断したのです。
 昭和27年(1952)、現在の場所に木造数寄屋風の旅館を建設、移転。昭和33年(1958)には、国際観光旅館として山佐別館を併設しました。

岡山初の“汽笛一声”
 明治24年3月18日、神戸から延びた山陽鉄道(現山陽本線)が岡山駅まで開通、備前平野を走りました。続いて同年7月には笠岡まで開通。その後、31年に中国鉄道の岡山―津山間(現津山線)、37年に同鉄道の岡山―湛井間(現吉備線)、43年に岡山―宇野間の宇野線と宇高連絡線が開通しました。
(『岡山県民の明治・大正』山陽新聞社)
路面電車の登場
 明治45年(1912)5月5日、岡山電気軌道の岡山駅―後楽園間が開通。乗車賃は1回4銭、往復7銭でした。
(『岡山県民の明治・大正』山陽新聞社)

結婚式を丸ごと請け負います。家から式場へ、結婚式の大転換を先導

 昭和の中頃までは、結婚式は自宅や公民館で行うのが一般的でした。
 そんな中、駅に近いという立地条件を生かして昭和43年(1968)に結婚式場「末広殿」を新設。式場・美容・着付・写真一式で売り出したことが大いに受けました。朝から晩まで結婚式の予約で一杯、1日20組という日もあったということです。
 ちなみに、昭和49年(1974)に山陽新聞に掲載した山佐別館の広告によると、結婚式一式で5万500円でした。
 昭和43年頃からは、新聞広告をはじめ、宣伝カーや馬車、セスナ機、さらにはテレビコマーシャルと、考えられる手段を駆使して広報に一層力を入れます。正にがむしゃらに突っ走る毎日、しかし夢に満ちた時代でもありました。

豪華真珠貼りのお風呂はお肌に良い!?山佐が提供した5年間限定のぜいたく

 昭和47年(1972)、新幹線岡山―新大阪間が開業しました。空前の岡山ブームが到来、岡山駅の1日の乗降客は20万~28万人(開業前平均の3.5倍)という大混雑が続きます。山佐にも他県からの修学旅行生が押し掛けるようになりました。
 追い風の中で昭和49年(1974)ホテル金波(現在の鷲羽ハイランドホテル)の経営に着手。翌50年には大浴場を「真珠風呂」に改装しました。浴槽内に真珠を敷きつめ、湯に溶けた真珠の成分が美容によいという触れ込みでした。ところが湯に溶けすぎて5年で真珠は消滅、ただのタイル貼りとなりました。
 昭和63年(1988)、瀬戸大橋開通。山佐は現在の姿に改装、旅館名も「山佐本陣」となりました。
 一定以上の年齢層の方ならテレビのコマーシャルソングをご記憶の方も多いでしょう。
「♪寿と宴の宿-、山佐-本陣♪」

平成21年(2009)1月29日早朝、火災により北館の一部を焼失しました。
 幸いなことに営業の継続には支障がありませんでしたが、社長である臼井正一郎氏は「皆さんには大変ご迷惑をお掛けし申し訳ありませんでした。また、多くの方からご心配いただき恐縮いたしました。今まで以上に皆様方から愛される旅館となるよう一層の努力を重ねていきます」とのことでした。
明治43年11月12日、岡山で陸軍の特別大演習が行われるのに合わせて明治天皇が来岡された時の奉迎門。小さく山佐旅館の看板が写っている。
路面電車の開通が明治45年であること、写真左端に道路工事車両が写っていることから、大正時代に撮影された駅前の風景と考えられる。山佐旅館の看板「佐」の字がみえる。
創業の頃、山佐本陣前での記念集合写真
昭和49年、結婚式場「末広殿」新聞広告
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