
創業130年余り、大瀧五一朗が明治10年(1877)に岡山市江崎で開いた餅屋から大滝餅は始まります。力には自信のあった五一朗が、お客から預かった餅米で餅をついて加工賃を得る商売を始めたのです。
年末には餅つきの仕事が次々舞い込みました。しかし、その他のシーズンはオフ。農業もし、時には人力車も引いた五一郎、たいそうな働き者であったようです。
後を継いだ長男の昇一は、餅つき機を自ら設計し省力化を図りました。しかし、機械に任せようとする態度が五一朗は気に入らない。「横着者だ」と随分叱られたそうです。
昭和16年(1941)、太平洋戦争勃発。翌年には食糧管理法が制定され、農家の自家用分を除くすべての米を政府が買い入れ、国民に公平に配給するようになりました。戦後も食糧難が続きます。米は国内生産では足りず1960年代頃まで輸入を繰り返していました。
米の流通が制限された戦中戦後は、米を原料とする大滝餅にとって苦難の日々。さらに、昇一の長男である貢が戦場に召集されてしまいます。死んだものと思われていた貢でしたが、満州で終戦を迎えてシベリアに抑留され、やっとの思いで岡山に戻ってきました。
大滝餅の経営を引き継いだ貢は昭和50年頃、近代的な工場を建設、移転。現在の大滝餅の姿は貢の功績によるものです。
昭和の始め、原尾島に競馬場がありました。ここに集まる人々が競馬を見ながら口に運んだのが大滝餅。競馬が廃止になるまで、とにかく売れに売れたとか。
農作業をする人々にも、仕事の合間に手軽に食べられる大滝餅のかしわ餅が大好評でした。そのため5月になると5~6人の売り子が乳母車のような台車にかしわ餅を乗せ、農家に販売して回りました。
昭和36年頃、初めて軽四自動車を導入し販路を拡大し始めます。
昭和40年頃には赤飯の弁当の製造を開始。当時、円山自動車学校に赤飯とお餅を卸しましたが、「赤飯だけでなく卵焼き程度でいいから何か添えて欲しい」という声があり本格的な弁当の製造を開始。これが評判となり、弁当にも注文がくるようになりました。
毎年11月、岡山市桑野スポーツ広場で操南ふれあいまつりが開催されます。
大滝餅ではこのイベントに備え、餅米を預かって格安で加工。餅を袋詰めするのは地元の中学生ボランティアです。出来上がった餅はイベントの餅投げに使われ、地域の人々の笑顔のために一役買っています。